20080531

自称中級者 ぶらり途中下車 年配古文教師


日本から珍客が来るということで、それに合わせて僕は少しばかりの休暇をもらった。
観光案内というものを経験したことがある人ならわかると思うけれど、これがなかなか難しい。ましてや住み始めて半年も経っていないイベリア半島の端の国だ。相当慣れていないと上手なスケジュールを組むことなんてできないだろう。何をするにしても、自称中級者というやつが一番ケガをしやすいのだから。
それならと、僕は開き直っていっそ自分も観光客として一緒に楽しんでしまうことにした。実は前からずっと気になって目をつけていたものの、ずっと試せずにいたものがあったのだ。それがリスボンのはとバスツアー「Carris Tur(カヒシュ・トゥール)」だ。
「Discover Lisbon」のキャッチコピーが刻まれた黄色い二階建てオープンバスのツアーは、まずモダンとヒストリカルの2コースからどちらかを選んでチケットを購入する所から始まる。僕達はべレン地区までルートが延びているヒストリカルコースを選んだ。バスはコメルシオ広場から出発して最終的にまた同じ場所に戻ってくる。
乗車券は24時間何度でも使えるので、べレンでパステイシュ・デ・ナタ(1)の甘いカスタードの匂いとシナモンの香ばしい香りにつられてぶらりと途中下車をしてしまっても、後から来たバスにまた乗り込んでツアーを再開できる。座席にイヤホンを差し込むと、場所に合わせて録音されたアナウンスが聞こえてくる。8ヶ国語対応で、高校の年配古文教師みたいな話し方をする日本語のチャンネルもある。

普段歩いている場所を少し違う視点で辿ると、気づかなかった色々なことが見えてくる。僕の脳の中のバーチャルリスボン・マップが、どんどん更新されていくのがわかる。個人的にはかなり楽しめた。時間的にも効率的だし、内容も偏っていないので初めての人にざっとリスボンを紹介するのには最良の方法なんじゃないかと思う。おすすめ。

(1)Pastéis de Nata: ポルトガルで最もポピュラーな菓子のひとつ。手のひら程の大きさの丸いパイ生地の器にカスタード・クリームをたっぷり流し込んで表面を少し焦げ目がつくまで焼く。エッグ・タルトとも呼ばれている。一口食べると、さくさくとしたパイ生地の食感としっかりと卵の味がするカスタードの甘さが広がる。有名なのが、べレンにあるPastéis de Belémという店。ポルトガルで一番おいしいパステイシュ・デ・ナタが食べられるといわれている。

20080530

エポックメイキング 地続き 熟練


ギマランイスの街を見下ろす山の中腹に建つポウザーダ「Santa Marinha da Costa」も、フェルナンド・タヴォラによって計画されたものだ。

それまで復元が主流だったポウザーダ建築で初めて増築、改修を本格的に行ったもので、他の建築家に一つの道を示したエポックメイキングなプロジェクトといえる。

既存の修道院は改修され、中庭から伸びた長細い棟は客室(オールドタイプ)とレストランになった。それと平行に客室棟(モダンタイプ)の新築部分が配置されている。また傾斜のついた地形を活かして、前面の新築部分の屋根面は後ろの既存部分の庭の地面と同じ高さで地続きになっている。最初僕はそうとは知らずに新築部分の屋根の上を歩いていた。こうすることで、下から見上げたときに新築の赤茶色のファサードと既存の白いファサードのきれいなコントラストを見ることができる。

新築部分は思ったよりも低く、親近感のあるスケール感が写真で見るのとは違った印象を差し出している。当時としては実験的だったはずなのに、非常に質の高い空間構成とディテールが達成されていて、僕は何か熟練されたものを感じた。

ギマランイス 広場 綿毛


日本と同じで南北に細長いポルトガルでは、緯度の変化とともに気候もやっぱり変化する。それに合わせるように街並みの形式も変わっていく。南部アルガルヴェ地方では地中海都市によく見られるスタッコ仕上げの白い街並みが展開され、中部から北部に行くと国産の石材を用いた石造りの街並みへと変わっていく。更に北部、ポルトを含めたドウロ川沿岸には木造の街並みも見ることができる。特にポルトガル発祥の地(1)として知られているギマランイスの木造の街並みは2001年に世界遺産にも登録されている。
ギマランイスへリスボンから直接行くにはバスに四時間半ほど揺られる必要がある。ポルトを素通りして更に60kmほど北上していく。ポルトガルを縦断していくと、窓から見上げた空に浮かぶ雲の厚さや重さが段々と変わっていくのが楽しい。

ギマランイスは、ポルトガル建築界の巨匠アルヴァロ・シザの師にあたる建築家フェルナンド・タヴォラとゆかりの深い街でもある。

旧市街の広場のいくつかは彼の手によって12年間に渡って改修されている。リスボンを含めたポルトガルの街では、他のヨーロッパの都市と比べて広場が少々使いにくいと思うことがある。それは地形とか都市計画のレベルとかが関わっているのだけれど、この街の広場はどれもよく使われている。決して広かったり平坦だったりはしないのだけれど、たくさんの小さな広場がうまく配置されていて、例えばある広場のオープンカフェに腰を下ろすと、建物の隙間から隣の広場で坂を転がるボールを子供達が追いかける姿が見えたりする。タヴォラはそれらの中の四つの広場を、それぞれに異なる手法を使って改修している。

五月のギマランイスの街中では、季節はずれの雪みたいな正体不明の綿毛が大量に漂って歩道に積もっていた。

(1)ポルトガル発祥の地: ギマランイスは初代ポルトガル国王アルフォンソ・エンリケスが生まれた街。街の入り口には「ここにポルトガル誕生する」と大きく書かれた壁がある。

20080529

ジャカランタ 紫色 月桂冠


未だに夏が来る気配すら感じないまま五月もしばらく経ってしまった。リスボンでは目に付き刺さりそうなほど鮮やかな紫色をしたジャカランタの花木が街中で次々に満開を迎えている。ブラジル原産、ノウゼンカツラ科の背の高いこの植物は、ポルトガルの初夏の風物詩になっている。

僕は毎日このジャカランタの並木の下ををくぐって事務所に通っている。
足元には、地球の引力に負けてしまった紫色の大きな花びらが無数に敷き詰められて白い石畳を彩っている。風が吹くと、手を伸ばすだけで掴めてしまえるほどたくさんの紫色の花がくるくると回転しながら舞い降りてくる。そこだけ映画かコマーシャルの一場面みたいな空気が漂う。音楽は安藤裕子の「のうぜんかつら」なんかいいかもしれない。月桂冠のCMよりは、全体的にカラッとしているのだけれど。

20080523

ヴァスコ・ダ・ガマ 緊張感 CG


アレンテージョ地方の港町シネシュが大航海時代の英雄、ヴァスコ・ダ・ガマの生誕の地だということはあまり知られていない事実だ。この町の周りに、いかにも穴場という感じの美しいビーチが沢山あるのだけれど、地元ポルトガル人でもない限りなかなか行く機会はないだろう。
2005年、港町シネシュに建築家アイレス・マテウス兄弟設計の文化センターがオープンした。平日にしか入れない場所があるということで、セトゥーバルから更に足を伸ばして見学してきた。
標識を探しながら車がゆっくりとシネシュの旧市街を進む。特に詳細な住所は調べていかなかったのだけれど、町の中心にさしかかったあたりで明らかに周囲の建物と建ち方が違うヴォリュームを僕はすぐに見つけることができた。車を降りて近づくと、なるほど周囲の建物との距離感、既存の道との関係、佇まい、そのどれもが絶妙なバランスを保っていてカッコいい。少しでもバランスを崩すと一気に良さが失われてしまうような緊張感みたいなものがある。ポルトガルでは、周辺環境に対する条件が緩かったり甘かったりする敷地が多いので、こうした緊張感のある佇まいを出すことがとても難しいということは、こちらにきて随分と実感した。もともとの性格が大雑把だということも理由の一つとしてあるとは思うけれど。
この小さな町に対して大き過ぎるほどのヴォリュームは、その半分を地下に埋めることで見かけの大きさを町のスケールに合わせている。実物を見ているのにCGみたいに見えるのは、角の取り合いを限りなく「線」にすることができる石の仕上げならではの効果だ。手の届く高さまでの範囲で薄く貼られた石が、既にかなりの数割れていたり割られていたりしたのが少し残念だった。ざっくりとした内部空間は平日なのにがらんとしていて少し寂しかったけれど、積極的に環境と関わろうとするこの建築の姿勢に僕は好感をもった。
シネシュを離れた後、僕とヌノは近くのひなびたビーチに立ち寄った。そしてオープンデッキで夕日が落ちるまでゆっくりと時間をかけてビールをちびちび飲んでから帰路についた。

20080522

セトゥーバル ルバート パラノイア


ポルトガル有数の工業都市セトゥーバルには、リスボンから車を走らせること40分程で到着する。セトゥーバルからやや外れた敷地に、アルヴァロ・シザ・ヴィエイラ設計の教員養成学校は建っている。
僕は同僚のヌノと一緒に、事務所からもらった休暇を使ってこのポルトガルの先生の卵のための学校を訪れてきた。学校建築全般を見学するときに共通していることだけれど、内部空間を見たいと思ったら土日祝日を避けて平日に来るしかない。シザは他にも、学校建築としてアヴェイロ大学に図書館と給水塔を、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラにサンティアゴ大学情報科学学部の学部棟を設計している。
セトゥーバル教員養成学校は、大小2つの庭が背中合わせに配置されたH型の平面をしている。両ウィングをつないでいる部分がエントランス兼2層吹き抜けのアトリウムとなっている。全体としては、両側面のウィングから更に体育館などのヴォリュームがぽこぽこと付け加えられたような構成になっている。
この建築の見所の一つは芝生で覆われた大きい庭とそれを取り囲む建物の造作にある。
大きい庭を囲んでいる列柱は、実は断面がそれぞれ異なる4種類の柱(それぞれ、四角、丸、木の葉を半分に切った形、それを反転したもの)が組み合わされて並んでいる。またそれらが支える連続した屋根は、建物の端まで来たところで急に高さが変わっている。その部分がこの建物の例外であるような印象を与えている。

ここでは大きく分けて2種類の「時間に伴う印象の変化」を感じることができる。
一つ目。遠くから見ると要素の繰り返しとしての列柱がリズムを作り出しているが、近づいていくと徐々にそれぞれ形の違う柱の周りの空間がそれぞれ異なる印象を持ち始める。それは連続的な体験として感じることができる。
二つ目。一枚の屋根が等間隔で柱に支えられている。それを目で追っていくといきなり屋根が落ち、柱は斜めなってその部分を受け止める。この非連続性が、意識の残像を生み出す。それは音楽で一定のテンポを急に崩す、ルバートの技術と似ている。
徐々に変化していく印象と、いきなり変わる印象。実は他にも沢山の場所でこの2種類の印象の移り変わりを見ることができたのだけれど、とても書ききれない。一つ分かったことは、シザの建築では少しの操作で大きな効果を得ることができているということ。それは地となる部分で一定のリズムやテンポを作り出すデザインが多く見られるということだ。それこそパラノイア気味なほどに。そういったことは目地などの納め方や素材の使い方に顕著に現れている。

歩き回ってあまりに腹が減ったので、学食で学食並みのフランゴ・ア・ブラシュ(1)とデザートのレイテ・クレメ(2)をかき込んで、僕らはその場を後にした。

(1)Frango à Brás: 鶏肉とタマネギを炒め、千切りのフライドポテトを合わせて卵でとじたもの。鶏肉のかわりにバカリャウを使ったバカリャウ・ア・ブラシュもある。
(2)Leite Creme: いわゆるクリーム・ブリュレ。本格的なところだと最後にバーナーで焼き目をつける。

20080521

外科的処置 のび太の日本誕生 コウノトリ


ペーニャ・ガルシアからバスの座席の確保に失敗した僕らは、タクシーを使って帰り路の途中にあるイダーニャ・ア・ヴェーリャという村に立ち寄ることにした。ペーニャ・ガルシアからタクシーで30分ほど進んだところにあるこれまた小さな村だ。
実はこの村には最初から寄る予定をしていたのだけれど、バスの時刻と帰りの列車の時刻から逆算して、あきらめざるを得ない状況になっていた。それが色々と予定通りにいかないことが重なって、結局予定通りに訪れることができたわけだ。
ローマ時代に栄えたイダーニャ・ア・ヴェーリャは、ローマからの支配が終わった後はすっかり廃墟と化してしまっていた。20世紀になって、遺跡の考古学的調査や、ポルトガルの建築家集団atlier15による修復、増築を通して村の再生を試みるプロジェクトが現在進行形で行われている。
ポルトガルにももちろんローマの遺跡はある。それも、初夏のデパートのワゴンセールみたいに沢山ある。この短期間に僕が訪れた場所だけでも、コインブラにあるコニンブリガや、ヴィラ・モウラ、ヴィアナ・ド・カステロにも見学のための足場が組まれた遺跡があった。
低い壁で囲まれたこの小さな村には、ところどころに建築家の手によるものと思われる外科的処置が施されている。スチールの手摺や足場、教会にかけられた新しい鉄骨の屋根、発掘された品を保管・展示するためのガラスボックス。古い記憶に新しい技術を組み込むという、どこかSF的発想を感じるためか、そのどれもが僕をわくわくさせる。そういえば、僕はドラえもんの映画の中でも、彼らがタイムスリップして古代に行ってしまう話が特に好きだ。
建築家がこの街で時間と空間をどうやって操作していくのか。コウノトリが村の中心にある改修された教会のてっぺんに巨大な巣を作って、それを見守るように優雅に佇んでいた。

20080520

カッターの刃 古生代 勘違い


モンサントでの寝床の確保に失敗した僕らは、インフォメーションセンターのどこか頼りないお兄さんの進めもあって近くのペーニャ・ガルシアという村で一泊することにした。モンサントからタクシーで30分ほど進んだところにあるこれまた小さな村だ。
オープンしたばかりの、古い家を改装したホテルには僕ら一組しか泊まっていなかった。夜に到着したばかりで星はすごくきれいだったけれど、真っ暗で人気のない村に正直あまり期待はしていなかった。夜が明けて村を散策しているうちに、いい意味でその期待が外れたのだけれど。

ペーニャ・ガルシアはその村全体がモンサントと同じくエストレーラ山脈の山にへばりつくようにして広がっている。モンサントとは岩の種類が異なり、こちらは片岩。板状の岩が層になっている。村の建物はモンサントほど直接的ではないにしろ、この岩を手がかりにして建てられている。村を少し歩くと、巨大な片岩でできた谷が、それこそダイナミックに突然眼下に広がる。崖上の広場では、お洒落な帽子をかぶった地元のシニョールたちがのんびりと谷底を眺めている。よく見るとロッククライミングをしている人もいる。片岩のカッターの刃みたいに尖った危うくて険しい表情は、モンサントの丸みを帯びた花崗岩とは違った印象を差し出す。照りつける太陽が強烈な線状の陰影をつけて、その印象を強めている。
片岩は海の底で形成されることが多いらしく、ここ一帯が昔海だったことを示唆している。谷底に降りていくと、岩のいたるところに三葉虫の化石があるのはここが古生代の地層だということらしい。
谷底を一通り歩いた後、村に戻って僕は小さな食堂に入った。襲ってくる蜂から身を守りながら、テラスで生ハムとチーズとチョリソーの盛り合わせを黙々と食べた。期待通りにうまい。田舎に来るほどいい食材に出会えるものだ。
カフェで聞いた帰りのバスの時間通りにカフェで聞いたバス停みたいな場所で待っていると、もうバスは通り過ぎたという。どうやらカフェの主人が勘違いをしていたようだ。仕方がないので、僕らはタクシーを使ってカステロ・ブランコの駅まで戻ることにした。

こんな予定外のできごとは、こっちの感覚ではいたって予定内だけれど。

20080519

岩 聖なる山 満室


少し前のことになるのだけれど、僕はかねてから訪れたいと思っていたモンサントというポルトガルのベイラ・バイシャ地方の小さな村にシキさんと行ってきた。1938年、「ポルトガルで最もポルトガルらしい村」に選ばれたことは地球の歩き方にも書いてあるくらい有名な話だけれど、基準は定かではない。

ポルトガルの小さな村は、そのどれもがそこだけ何か時間の流れに取り残されてしまったみたいな空気を持って国中に散らばっている。ほとんどが一日で全ての道を踏破できてしまうくらいの規模なのだけれど、それがかえって僕らに与える印象の密度を大きくする。何度も同じ道をぐるぐると回っていると、安心感とともに親しみさえ沸いてくる。おまけに大体の場合料理がうまい。
一つだけ難点を言えば、こうした小さな村は往々にして公共交通からも取り残されていることが多い。車を持っていないとなかなか思うように旅程が進まないことも多いし、辿り着くことさえできない(1)かもしれない。そんな時は、どう見ても頼りにならなそうなインフォメーションにしかたなく電話して、しかたなく彼らを頼ってみる。少なくとも、モンサントまではかろうじてバスが通っている。
背もたれの壊れかけたバスに揺られ、内陸独特の少し湿った平原の景色を進む。羊の群れを追い越して進む。ある地点を境に、遠い年月を想わせる角の取れた巨岩が大地にごろごろと現れ始める。遠くにその丸まった巨岩をたっぷりと乗せた岩山がそびえたっているのが見える。ポルトガルの真ん中を走るエストレーラ山脈の一部だ。ぐるりとその山を回りこむようにしてバスが進むと、窓越しにモンサントの村がすっかり山肌と同化したみたいにしてその姿を見せる。この瞬間はなかなかにドラマチックだ。
Monsanto(聖なる山)という名前が、果たしてこの村を指しているのか、それともこの山を指しているのか、結局僕には分からなかった。山が村で、村が山なのだろう。山頂の城を囲むようにして、この村の石造りの家は文字通り岩を手がかりにして建てられている。岩に挟まれ、岩を囲み、岩を彫り、岩に乗っかっている。
最近では観光地化が進んで、もともとの異様な姿とあいまってテーマパークみたいな雰囲気になってしまっている部分もあるけれど、当の村人達はとくに気にしている様子はない。おばあちゃんは家の玄関の前に腰掛けて世間話をしたり編み物をしている。日中暑くなると家の中に戻り、涼しくなって夕日が通りを染める時間になると、また家の外に腰掛けておもむろにオレンジの皮をナイフで剥き始める。そんなリズムは、昔から変わっていないのだろう。
その日、泊まろうとしていたモンサントの宿が満室だったので、僕らは近くの村「ペーニャ・ガルシア」で一泊することになった。
こんな予定外のできごとは、こっちの感覚ではいたって予定内だけれど。
(1)モンサントへの行き方: リスボンからカステロ・ブランコへ電車またはバスで移動。そこから更にバスで1時間半。土日祝はバスが一回しか通らないので、必然的に一泊することになる。時間は要確認。

20080510

七つの丘 コウカリオ スニーカー 


七つの丘を持つといわれているリスボンの、マーラーの音楽みたいに起伏の激しい道には、「コウカリオ」というライムストーンが敷き詰められている。立体的なリスボンの街を覆うこの石畳は、複雑に入り組んだ道の高低差の誤差を吸収して、坂道を歩く際の滑り止めの役割を果たしている。ただし雨が降ったときには凶器と化すのだけれど。

最近、僕は事務所に向かう道すがら職人がコウカリオの道を修繕している所を見かけた。リスボンだけでも気の遠くなる程あるコウカリオの小片の一つ一つが、こうして人の手を通して嵌め込まれているのだ。この石の一つ一つが、リスボンっ子の足腰を鍛えているのだ。そう思うと、ところどころ歩きにくいところがあっても、休日なんかに一日中歩くと足首がふにゃふにゃになってしまっても、スニーカーのソウルがたった一ヶ月でありえないくらい擦り減ってしまっても、なんだか許せてしまう気がした。

20080509

雑誌 禁煙 トレース


今週から僕はパブリケーションと呼ばれている仕事を手伝っている。建築雑誌に載せるための図面の作成やレイアウトが主な作業で、渉外以外の実務的な部分を任せてもらっている。ポルトガルでは学生時代にイラストレーターを使って作業することがほとんどないらしく、事務所内でまともに扱えるのが僕を含めて数人しかいない。そのせいもあってか、わりと重宝してもらっている。今月リスボンにカヒーリョが設計した新しい美術館、ムゼウ・ド・オリエンテがオープンするので、それに向けて雑誌などでいくつか特集が組まれるみたいだ。
僕は以前デザイナーのペドロが使っていた部屋を独り占めして、研修生のものよりも少し速いMacを使って久しぶりに英語版イラストレーターで作業をしている。コーディネーターのスザンナの部屋の隣にあるこの部屋にいると、彼女の吸う煙草(1)の煙のせいで一日の終わりには僕のTシャツはすっかりカラオケのソファみたいな匂いになる。事務所内はベランダ以外禁煙になったはずなのに、最近ではみんな堂々と部屋の中で煙をくゆらせている。まったくありえない話だ。
少し前まで立て続けにコンペに参加したおかげで随分と設計モードだったので、このパブリケーションの仕事は俯瞰的に事務所と関われる絶好の機会になっている。事務所の過去のプロジェクトや実際に動いているプロジェクトの図面を色々と見ることができるので、すごく楽しい。特に、雑誌に載せる際には既存の図面から線を間引いていくことになるのだけれど、これが勉強になる。ディテールをみながら、どの線が必要な線でどの線を消してよいのかを考えたり、既存の(修道院が多い)建物と増築部分との接合部分の納まりを見ながら線の太さを変えたりするのは、トレースをしているのと同じようなものだ。短期間にこれだけ多くのプロジェクトに関われるだけでも、この事務所に研修にきた価値を見出すことができる。もちろんそれだけではないけれど。
前にも書いたけれどやはりカヒーリョ事務所のプロジェクトは既存の建築と絡ませているものが特に面白いように思う。増築や改修の手法はまさに熟練されたものを感じさせる。「それだけアイデアを暖めているっていうことだよ」、シキさんは言った。この強みは、現代の建築界においてかなり重要なものだ。来週末にはべレンの宮殿内部にあるアーカイブセンター、夏にはポルトガル東部のクラートという街にあるポウザーダを訪れる予定。


(1)煙草: こちらの煙草の箱には、かなり大きな字で「Fumar Mata(喫煙は殺す)」と書かれている。そんな箱を持ちながら堂々と煙草を吸っている姿はある意味シュールでさえある。

20080507

パルメラ マリオカート スピン


所員のパウロに誘われて、僕は仕事終わりに対岸の街パルメラにまで同僚達とカートレースをしに行った。
マリオの出てこないカートレースは初めてだったし、ポルトガル語の説明は半分くらいしか分からなかったけれど、エンジンの音、風を切る感覚、前を走るカートから巻き起こる砂埃、接触したときの衝撃、スピンしたときのタイヤの焦げる匂い、どれも新鮮で最高に楽しかった。仕事中からやる気たっぷりだった言いだしっぺパウロは堂々の三位入賞。僕達はスピンの回数なら間違いなく入賞。